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Official Guide

オフィシャルガイドの会

見出しHEADLINE


■ 曲輪(くるわ)

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堀と土塁で囲んでつくられた平地。
江戸時代初期に造られた城郭の・・・丸、二の丸、三の丸、北の丸などの「丸」と同じ意味です。

戦国時代のものはこの写真のように土塁で囲まれたものや、あるいは柵列(さくれつ)で囲まれたものがあります。
この土塁はまったく現代に作成されたもので、単なる雰囲気です。


■ 大手門跡

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大手門は古文書などからその存在が推測されていました。
1988年(昭和64年)の発掘調査により踏み石や土塁が検出されたことなどからその存在が確認されました。門の形式は発掘された礎石や敷石などから「薬医門」と呼ばれる形状の門と考えられています。
現在は埋め戻されています。


■ 大手道(古道)

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「古道」は八王子城跡特有の表現で大手道と同じ意味です。
またこの下で解説している上の道・下の道の上の道とも同じものです。
戦国時代は大手門跡の下から大手門を通り、城山川の右岸(写真)を上り御主殿曲輪に対峙する曳橋(ひきはし)の橋脚部まで続きます。
対岸の道は江戸時代に作られた林道で、明治以降営林事業の開始にともなって拡張されたものです。


■ 曳橋(ひきはし)

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「曳橋」は八王子城跡特有の表現で一般に使用されている引き橋と同じ意味です。
敵が攻撃してきたときに引いて取り外し敵の侵攻を阻止することを目的として構築されました。
御主殿曲輪の土塁に登って天然の堀である城山川にかけられた曳橋が取り外されたとき強固な防御が発揮されることを想像してみて下さい。
もちろん今架けられている曳橋は現代に観光用に作られたもので戦国当時はもっと粗末なものだったはずです。


■ 虎口(こぐち)

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城や武家屋敷の入り口。
曲輪の出入り口。

これはジョークです。直江 兼続(なおえ かねつぐ)に扮して来城したのは名古屋から来城したSSNさんです。戦国武将のコスチュームで日本百名城を巡っているということです(12/02/25)。


■ 御主殿跡(御主殿曲輪)

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御主殿曲輪は城山川から急峻にせり上がる人口の段丘です。
1992-93年の発掘調査の結果、ここからは多くの出土品が発掘されました。またここに氏照の居館があったことを裏付ける二棟の大きな館の礎石が発掘されています。
本丸(山頂)がいざ戦いというときのための要塞だったのに対し、ここはいわば本社機能が集まった場所ということになります。


■ 上の道(上道)・下の道(下道)

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大手門を通り虎口へ向かう大手道は身分の高い方や来客が通るための道で「上の道」ともいわれます。
一方、日常の生活のための道は「下の道」といわれ上の写真に矢印で示した部分が終点です。このあたりにはいわば勝手口「台所門」があったとされています。
また、「下の道」の矢印にしたがって進むと金子曲輪に最短で出る近道があります。しかしここは道が錯綜しておりガイドの案内なしで入るのはNGです。
下の道を見られるスポットは何ケ所かありますが立体模型の屋外展示がある広場の上のあたりは比較的明瞭に戦国時代の踏み跡をトレースすることができます。


■ 土塁(どるい)

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大手門跡の横に連なる戦国時代のままの土塁です。
大手道を正面突破してくる敵の侵攻を防御するためには築きあげられたものです。
もちろん、当時はこれらの杉の木立はありませんでした。


■ 柵列(さくれつ)

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■ 本丸跡(八王子城山々頂:山頂曲輪)

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八王子城山の山頂曲輪です。
本丸跡となっていますがここに聳え立つような五層の天守閣とかがあったわけではありません。
スペースも広くないことからそれほど大きな建物ではなかったと思われます。
現在、山頂は樹木に囲まれて展望はありません。戦国のときに氏照はここから関東平野を睥睨(へいげい)したはずですが今はそれを実感できないのが残念です。
多分こんな感じで見えたのでは?


■ 八王子神社

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氏照は八王子城の築城にあたり八王子権現(神社)を城の守護神としました。
現在、この山上の神社は氏子の皆さんのご努力で運営管理されています。毎年、春には例大祭がこの境内で取り行われています。
城跡管理棟前から山頂へ向かうメインの登山道は、八王子神社に向かう表参道ということになります。
また驚くべきことにこの山上エリアには戦国時代二つの井戸(坎井:かんせい)がありました。


■ 大堀切(ほりきり)

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敵の侵入を阻止するために尾根筋に直角にV字型やU次型に切り込まれた防御構造です。
詰の城から富士見台方面に向かう登山道を降り始めたところにこの城で最大級の堀切があります。尾根線から切り込まれた深さは10mです。
ここでは400年以上の時空を超えて、むき出しのまま残っている削り込まれた岩肌を目の前にし、戦国の人たちと同じものに触れることができます。
さらに、岩肌の中央にはえぐり切りこまれた方形の空間があるのがわかりますか。
大きさは、きちんと水平にほぼ40cm、縦もきちんと垂直にほぼ20cm、奥ゆきは12〜13cmのえぐり削られたボックスです。
戦いに明けくれた当時の人たちの祈りの証、祈壇だったんですかね?


■ 竪掘(たてぼり)

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山の斜面の等高線に対し垂直になるように掘り込まれたものをいいます。
これも敵の侵攻を防ぐための防御機構のひとつです。
敵が水平に移動するのを防ぐのが目的です。


■ 野面積み(のづらづみ)

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八王子城の石垣はこの城塞を創る過程で出てきた石(砂岩)を利用して構築されたものです。
工法は野面積みというものであり、自然石を加工せずにそのままランダムに積み上げる方法です。すき間には小さな石を詰めながら積み重ねます。
これに対し、江戸時代初期に創られた城は方形に整形した石材を規則的に積み上げる方法です。


■ 馬蹄段(ばていだん)

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馬蹄(半分に切った楕円形)のような形をし突き出した階段状の曲輪。
城跡管理棟から始まるメインの登山道、これはいわば八王子神社への表参道ですが、この山頂へ向かう尾根に7段の馬蹄段が認められます。
これらは攻め上げてくる敵を攻撃する防御のために築かれたものです。
金子曲輪の下あたり、4合目の表示の前後に展開します。
戦国時代からむき出しのままその形をとどめる戦国証言遺構です。


■ 御主殿の滝

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天正18年(1590年)6月23日、落城の日、前田利家、上杉景勝の連合軍に完膚ないほどに攻め上げられ敗色濃厚の八王子城勢は、ご婦人方が次々に自刃しこの御主殿の滝下に身を沈め、そののち三日三晩、この川は血の色で真っ赤に染まっていたといわれてます。
真夏などにこの滝壺の縁に降りてみるとマイナスイオンの効果で周りより2〜3度低く感じられ、なかにはまれではありますが特別な霊気が感じられるという方もいます。


■ 搦(から)め手

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正面の登城口を大手ということに対し裏口を搦め手といいます。
八王子城の場合、陣馬街道に接する松竹(まつたけ)橋から住宅街を400mほど西方に進んだところに登山口の表示があります。
天正18年(1590年)6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝の連合軍の中で上杉軍は搦め手から攻めあがったとされています。
正面突破をはかった前田軍はこの城の防御体勢に手こずったのに対し、搦め手の上杉軍がついには本丸を陥落させたといわれます。


■ 殿の道

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御主殿曲輪の最も奥、赤い矢印で示した「マムシ注意」の表示があるところがいわゆる殿の道への入り口です。
戦国の時代、いざ戦いというときに城主氏照が急いで本丸まで登るための道として作られたもの、というのは通説で、もしそれにあたるものがあったとすれば慶安の古図に描かれている御主殿の裏からの道がそれにあたります。
登り始めて2〜3分で四段(四団)の石垣(次項参照)、すなわち、420年間手つかずのままの石垣群に到着します。
ガイドなしで入るのはNGです。


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ちなみに、殿の道の降り口って?
ここです。分かりにくいんですよ。写真では今まさに登りきろうとしているしているところですが、逆にここから下るんです。
山頂部に行くとみんな見ているはずなんだけれど気がつかない場所です。中の曲輪の下の段にあります。
殿の道は登るのもガイドなしではNGですが、下りはもっと大変、普通の方は勝手に下るのは絶対やめて下さい。


■ 四段(四団)の石垣

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■ 馬(こま)冷やし

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見て分かるように敵の侵攻を防ぐ目的でつくられた堀切と同じです
八王子城山の山頂地区にあり戦国に作られた遺構がそのまま残っているものです。
山頂に鉢巻を掛けたように2本の馬回し道がありますがそれが交差しているところです。


■ 詰城(詰の城)

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八王子城の西側の端で城跡ガイドの守備範囲もここまでとなります。
詰城の役割としては本丸が陥落したときに最後の拠点にするために構築されたものです。
この西側すぐ下には尾根を鋭くえぐり取られたようなこの城最大の掘り切りがあります。


■ 石塁(せきるい)

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土塁(どるい)と対応して考えるといいでしょう。
また、石垣と違う点は、内側と外側の両方に石積みが施されているところです。
写真のこれは詰の城のすぐ手前の登り道に沿って続くものです。
戦国時代からむき出しのまま残った石塁で戦国証言遺構です。


■ 太鼓曲輪(尾根)

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御主殿曲輪に向かう大手道の左側(城山川と反対側)の尾根です。
戦国の時には樹木が切り払われてなかったわけで対岸の御主殿曲輪から城山の山頂曲輪までは威圧感をもって対峙していたはずです。
現在はこの尾根を歩いても樹木の間から垣間見る山頂部を見るだけです。
また、ここには420年の歳月を経ても土砂に埋もれることもなく残っている5つの掘り切りがあります。
  参 照


■ 北条氏(後北条一族)

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