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Official Guide

オフィシャルガイドの会

見出しHEADLINE


■ ガイドメンバー


八王子城跡のボランティアガイドはおよそ30名で構成されています。ガイドの個性は十人十色です。
ガイドからの目線でいうと来城者の半分は自然のふれあいあいを求めて来られる方、ウオーキングや登山基地としての利用などです。これらの方にはリピータも多くいます。
一方、城跡本来の歴史などの探訪を目的に来られる方は残り半分です。
日本百名城めぐりのひとつとしてという方もこの中に含まれます。一部の歴史マニアの方以外は残念ながら一生に一度きりという方が多いといえます。
そこで、あなたが八王子城跡とはなんて素晴らしいところなんだという印象をもって帰るためには、ご自分の目的にあった相性のいいガイドをつかまえるのがその一歩です。



■ ガイドの時間帯


ガイドメンバーは曜日ごとに3〜4名前後のメンバーが割り当てられて輪番で担当し、年末と正月三が日(市役所の休日に同じ)とガイドの定例会と集合研修日以外年中無休です。
  ガイド時間: 9時〜16時(受付は15時まで)
  ガイド料 : 無料
  ツアー時間: 30分〜1時間半
お気軽にお申し付け下さい。なお、団体で来られる場合、リーダーの方が事前に踏査に来られるケースも多く見受けられます。
また、悪天候などにより活動を休止する場合があります。ご了承ください。

  予約:ガイドホームページで見たと、申し込みして下さい(無料)。
     八王子市文化財課 直通 TEL: 042-620-7265


■ ガイドコース


八王子城跡の探訪のコースを大きく二つに分けて説明します(上図参照)。

  [緑色]管理棟から御主殿跡(御主殿曲輪)を中心・・・・・[基本コース]
  [水色]基本コース以外のバリエーション    ・・・・・[オプション]

[基本コース]八王子城跡のボランティアガイドはこのコースを廻ることを基本としています。これは城跡探訪のメインのコースになります。

[オプション]要害地区、すなわち本丸(山頂)などのコースはオプションです。したがって対応してくれるガイドが限られます。また、コース取りも多彩となり一概に記載することができません。
サブ頁の「ツアーマップ」に、コース取りの例をいくつかあげて記載しましたのでそちらも参考にして下さい(ここをクリック)



■ まずはガイダンス施設で八王子城の情報をコンパクトにインプット


バスで来られた方や徒歩で来られた方が城跡に近づくと、右手に白い八角形の屋根をした建物が見えてきます。これが2012年10月にオープンしたガイダンス施設です。
マイカーで来られた方も駐車場に車をおいたら、一旦ガイダンス施設に戻りましょう。
まずはこのガイダンス施設で八王子城の情報をコンパクトにインプットしましょう。
おすすめは北条氏照公と小田原北条(後北条ともいう)についてまとめた6分間のビデオ映像です。
それを見て八王子城の概略をつかんでからスタートです。



■ 八王子城を取りまく立体模型の屋外展示


立体模型は城跡管理棟に向かってその右手、ガイダンス施設からは左上肩に伸びる遊歩道沿いにあります。
ここで八王子城が関東平野の西側の最終端部、北高尾山稜・山塊(関東山地)の突端部に位置することが見てとれます。
戦国時代の末期、ここが北条氏(小田原北条、後北条ともいう)が支配する関東平野を睥睨(へいげい)する要衝であったことを押さえておきましょう。
本丸(山頂:要害部)まで登ることを考えている方は、おおむね直登で比高差200mを登るため、ご自分の体力、シューズ、ウエアなど、十分であるかなどを確認しましょう。



■ スタートは、まずここから


城跡をめぐる起点となるのはここ城跡管理棟前の広場からです。
こには八王子城に関する情報をコンパクトに凝縮したパネルがいくつか並んであります。
また、我々ガイドの詰め所もここにあり、城跡管理棟の右側半分を使用しています。
城跡ツアーはまずここからスタートしましょう。



■ 御主殿曲輪: 戦国の武蔵野を望む、築き上げられた段丘要塞


御主殿曲輪(くるわ)は関東平野の西側の最終端部と北高尾山稜・山塊(関東山地)が始まる分岐点に位置します。
今でこそ城跡周辺は緑ですっぽりと囲まれていますが戦国の時には周囲一帯は木がない状態です。敵の攻撃や忍びの者の侵入を見通せるようにするためです。
落城から430年ほど経った今、御主殿曲輪の眼下には杉などの木立が並び展望がありませんが、立ち位置を変えたりすると遠く新宿のビル街が見えたりします。
ですので戦国の時には御主殿に去就する人々は、御主殿曲輪を囲む柵列(さくれつ)に弓矢や鉄砲を打つためにしつらえられた穴(狭間:さま)から、当時の武蔵野を遠望していたはずです。
そのとき江戸は? 葦の原でしたね。



■ 御主殿曲輪: 下には天然の堀:城山川


御主殿曲輪は築き上げられた段丘要塞です。
下を流れるのは城山川で堀の役割をもっています。
ここが関東平野の最終端の最深部です。ここのすぐ右手にある御主殿の滝は北高尾山稜・山塊(関東山地)が始まる最後の堰(せき)ということになります。



■ 御主殿曲輪: 石段


これが御主殿曲輪すぐ手前の石段です。
この石段は1987年(昭和62年)から行われ発掘調査により出現した、ほんまもんの戦国遺構です。
ここには踊り場が二つあって、写真の手前の部分はその下の方のものです。
登りにくさを実感して下さい。



■ 御主殿曲輪: 冠木(かぶき)門


登城道の虎口から石段を登りつめて、ここから御主殿曲輪ですと主張しているゲートがこの冠木門です。
復元したものというよりは雰囲気づくりのためのもので1990年に初代が作られて以来、破損度に応じて何度か作りかえられています。
この門をくぐるといよいよ氏照公の館跡などの遺構が凝縮されている御主殿曲輪です。



■ 御主殿曲輪: ようこそ、氏照公の館跡まで


冠木門をくぐって足を踏み入れたここが氏照公の執務や居住していた空間です。
1992年〜1993年(平成4・5年)に大規模な発掘調査が行われた地区です。
その後、20年近くは見た目はただの広大な芝生の原っぱでした。
それが、2012年〜2013年に復元的整備事業が行われ、今では戦国の有様をしっかりと我々の眼前に展開してくれるように変貌しました。



御主殿地区では発掘により、2つの大型建物遺構が出現しています。
その中でも最大のものは氏照公の御主殿で、上にあげた写真はその礎石(土台石)まで復元したものです。
ただし、本物はこの地表の下、60cmに眠らせたままです。大事な歴史遺産を保護し、のちの時代に継承するためです。
すなわち、写真で見ているものはレプリカで、御主殿跡の遺構イメージです。
では御主殿とはどんな建物だったのでしょうか。押さえておきたい方はここをクリック



大型建物遺構の2つ目が会所跡の遺構です。
会所は床面までの復元です。
なぜ床面までかって?
指導しスポンサーでもある文化庁の指示です。
この御主殿曲輪に展開される遺構イメージは、一部の例外を除き、ひとつ前の項で述べたようにレプリカです。



■ 自刃の淵、しばし供養の時を


「御主殿の滝」の滝つぼの真上にある淵です。
1590年(天正18年)圧倒的な前田・上杉の連合軍の猛攻をうけ千数百人が討死したとされる落城のとき、この御主殿の滝に面した淵で多くのご婦人方が自刃し下の滝つぼに身を投じ、それで城山川は三日三晩、血で真っ赤だったという言い伝えがあります。



■ 天守閣はいずこに? (絶好の昼食スポット:松木曲輪)


八王子城には五層(五階建)とかのような聳え立つような天守閣はもともとありませんでした。
それらは、1992-93年の発掘調査など数次におよぶ調査でも瓦が1枚も見つからなかったことなどからも実証されています。
あくまでも敵と戦うことを旨として創られた山城です。



山頂部(要害部)では山頂曲輪(本丸)を取り囲むように大きな曲輪が4つほど配置されています。
現代では松木曲輪は特別の存在で、テーブルとかイスとかが数基あり絶好の昼食スポットです。
特に冬場は木々の葉っぱも落ちて関東平野を眺めながら楽しいランチということになります。



これは松木曲輪から神奈川方向を展望したものです。
相模湾が白い帯状に横たわって見えます。その中央下辺にイモムシのように横たわっているのが江の島です。
このように江の島が見えるのは相模湾の海面にあたる太陽の角度が重要で、それでいうと、陽光が海面にあたってこちらに届く角度、すなわち、冬の晴れた日の AM 10:00〜11:00ころということになります。
その条件に会うときはぜひ松木曲輪に立って見て下さい。



■ 本丸跡(山頂曲輪)


要害部(山頂部)の中心となる曲輪です。
現在では「八王子城本丸跡」と銘した石碑があります。
でも、この広さ(狭さ)からいって本丸としての建物があったわけではありません。
あくまでも戦いの象徴としての本丸です



■ ガイドなしで回るとき


カップルで来られた方などガイドしてもらうのはウザッタイという方も結構います。
でも、城跡内には随所に適切な案内表示パネルがありますのでガイドなしでももちろんOKです。



■ 見逃せないスポット−御主殿曲輪の土塁(縁)に登り俯瞰


御主殿曲輪の土塁(縁)に登り俯瞰することによりこの城がいかに堅固な防御を旨として創られたかがわかります。下に深く入り込んだ城山川は天然の堀になっています。正面に横たわるのは太鼓曲輪です。
天正18年(1590年)6月23日、攻め手は豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝の連合軍2〜3万、むかえる八王子城勢は精鋭部隊が小田原に援軍に行っていたこともあり、残された女、こども、老人、かき集めた百姓など2〜3千、彼我の力の差は歴然でした。
そのためこのような堅固な要塞も1日にして落城しました。



■ 見逃せないスポット−発掘出土物の紹介パネル


虎口から御主殿曲輪に登り切ったそのすぐ右側の陰に、1992-93年の発掘調査で見つけ出された多数の出土品を紹介するパネルがあります。
戦いに明け暮れた戦国の中にあっても、いっときの優雅な時間を過ごした武将たちの生活がうかがい知れます。
なお、これらの発掘出土物の中でも特筆されるのはベネチア産のレースガラス器で、それは八王子市郷土資料館に展示されています。



■ 見逃せないスポット−御主殿の滝(レジェンドの滝、悲劇の伝説が・・・・・)


天正18年(1590年)6月23日、落城の日、前田利家、上杉景勝の連合軍に完膚ないほどに攻め上げられ敗色濃厚の八王子城勢は、ご婦人方が次々に自刃しこの御主殿の滝下に身を沈め、そののち三日三晩、この川は血の色で真っ赤に染まっていたといわれてます。
それにちなんで、元八王子に住むお宅のなかには、6月23日になると米にアズキを入れて炊いたご飯が食卓にのぼる家もあったといわれます。
真夏などにこの滝壺の縁に降りてみるとマイナスイオンの効果で周りより2〜3度低く感じられ、なかにはまれではありますが特別な霊気が感じられるという方もいます。
御主殿の滝はいろんな思いが込められたレジェンドの滝であります。



■ 見逃せないスポット−氏照公が本丸から見ていた関東平野(擬似体験)



現在、八王子城山々頂(本丸跡)は周囲を樹木に囲まれて展望がありません。ですが戦国の時は視界をさえぎる樹木はなく関東平野を見下ろすことができたはずです。だからこそ氏照はここに城塞をつくろうと考えたわけです。
本丸から見渡すのと殆ど同じ眺望が得られるスポットがあります。メインの登山道を登って9合目の表示を100mほど過ぎると左手の眼下に関東平野が展開します。山頂との比高差30m、山頂とほぼ同じ視線です。
そこに立って氏照公が関東平野を睥睨(へいげい)していたことを擬似体験してみましょう。



■ 見逃せないスポット−山上の井戸(坎井:かんせい)


戦国の時、山頂(本丸)の下には2つの井戸(坎井:かんせい)がありました。
1つは八王子神社の左横、現在も当時の井戸の跡があります。
これは「慶安の古図」(1548)にも、松木曲輪と小宮曲輪の間の平地(ひらち)に、井戸(水)の存在が明確に描かれています。

もう1つの井戸はそこから詰の城方向へ登山道を百米ほど下ったところの右側にあります。現在はそれに手押しポンプが付けられていて水枯れの時期以外はしっかりと水がでます(上の図)。
なお、ガイドグループがここの水の水質を検査機関に依頼して調査してもらったところ飲料として「不適」との結果が出ています。したがって飲むことはNGです。

氏照公が滝山城からこの深沢山(八王子城山)に新たな城を築こうとしたとき、この山上には水が出る場所があることを知っていたんでしょうね。



■ 気がつきましたか−戦国の時、大手道の幅が8mもあったことを


430年たっているうちに土草が流れて狭くなったんでしょうね。今は復元されたものを見ているのでなんともいえません。
山側の方を試掘して右端の位置を確認してみる必要がありますね。
安土城だって大手道の幅は6mです。それに加えて両側に1mずつのソデの部分があり、計8mということです。
格というか身の丈を考えれば信長は超えられない。



■ 気がつきましたか−大手門・大手道の上の竪掘(たてぼり)跡


大手門跡から大手道(古道)を歩きはじめてすぐの橋から左手上に小さなな谷が見えます。これは小さいですが、よく竪掘跡といわれます。
また堀の断面形状がV字型のときは「薬研(ヤゲン)堀」ともいいます。
さらに、この谷筋の右側に沿って登ると太鼓曲輪の稜線に出ます。



■ 気がつきましたか−虎口の石段の高さ、踏み面


御主殿の入り口である虎口から「コ」の字形に折れ曲がって登る石造りの階段通路があります。
これは八王子城特有のもので踏面(ふみづら)が1m、蹴上(けあげ)が平均36cmで、登りにくい構造になっています。
これも攻撃する敵軍が攻めにくくするための工夫のひとつです。
当時の人は身長も低く(足が短く)、20〜30kgもする甲冑をまとってということになるとさらに登りにくいことだったでしょう。



■ 気がつきましたか−虎口踊り場の櫓門跡の礎石


虎口から御主殿跡(御主殿曲輪)へ登る階段の最初の踊り場に4つの礎石があります。敷石の面より10cmほど高くなっています。 ここには見張りのための櫓門があったと考えられます。
また両側の石垣に沿って雨水排水のためにつくられた石組みの側溝も見てとれます



■ 気がつきましたか−八王子城の石垣は野面積み(のづらづみ)


八王子城の石垣はこの城塞を創る過程で出てきた石(硬質砂岩)を利用して構築されたものです。
工法は野面積みというものであり、自然石を加工せずにそのままランダムに積み上げる方法です。すき間には小さな石を詰めながら積み重ねます。
これに対し、江戸時代初期に創られた城は方形に整形した石材を規則的に積み上げる方法です。



■ 気がつきましたか−馬蹄段はむき出しの戦国遺構


本丸跡(山頂)をめざして登山道を登り始めてじきに左手に現れる馬蹄段は、戦国の時に構築されたものがそのまま見られる遺構のひとつです。
これは攻め上がってくる敵軍を迎え撃つためにしつらえられた階段状の小曲輪の連なりです。
上下に八段続きます。
馬蹄段は「慶安の古図」(1548)にもその存在が明確に描かれているものです。



■ 気がつきましたか−柵門跡下の戦国石垣群


この石垣は2014年5月末に出現したものです。
正確にいうと、前から少し石垣が見えていたのですが、落ち葉、草木が長年積み重ねられ隠されていたものが、そこに立っていたカヤの大木が倒れきれいに除かれ顕在化されたというものです。
石垣の上下の分離帯にはしっかりと「犬ばしり」がしつらえられています。
現在は、人が立ち入ることによる崩落の危険性や歴史遺構の破壊も引き起こしかねないので「立ち入り禁止」になっています。
柵門跡下の登山道から覗きこむか、旧道から見とおせるように少し手を入れてありますのでそこから見上げるかして下さい。




■ もっと見たい方へ・・・・・


■ もっと見たい方−戦国のままの石垣群−四段(団)の石垣


四段(団)の石垣群は秘匿のコースです。ガイドなしではわからないポイントです。
御主殿曲輪の最も奥、「マムシ注意」の表示の横から山頂へ向かう踏み跡があります。これが通称「殿の道」です。
通説では、いざ戦いというときに城主氏照公が急いで本丸まで登るための道、とされていますがそうではありません。
もしそのようなものがあったとすれば、「慶安の古図」(1548)に記載されている要害部(山頂方向)へ向かう道がそれにあたります。平成4、5年の発掘により出現している御主殿の裏に位置する通路遺構にその片鱗が認められます。

四段の石垣へは「マムシ注意」の表示の横から入り、2〜3分で一段(団)目の石垣に着きます。
上の写真は一段目の一部です。
現在、一段目より上は入ることも通り抜けもNGです。
それは、石垣をよじ登ったりするマナーの悪い人が増え、そのような行動から大切な戦国遺構を守るための処置です。



ここも420年間手つかずのままの石垣群のひとつで、四段の石垣群の中の四段(団)目の石垣です。
手前に横たわる指揮台石(通称)は武将が立ち上がって采配をかざし気勢をあげたときのものとか(のちの時代の人が言っていることです)。



指揮台石はこんなふうに使われたんでしょうか。
でもなぜ直江 兼続(なおえ かねつぐ)が殿の道を?
これはジョークです。兼続に扮して来城したのは名古屋から来られたSSNさんです。戦国武将のコスチュームで日本百名城を巡っているということです。(12/02/25)



■ もっと見たい方−要害部の馬回り道


馬回り道は要害地区(山頂部)を取り巻くように、等高線に沿って張り廻らされています。
「馬冷やし(こまびやし)」を経由し松木曲輪などを結ぶ連絡路です。
馬冷やしが甲斐側から攻めてくる軍勢を防御するための堀切であるのは明瞭です。だとしたら、なぜそれをスルーするこのような道を作る必要があるのでしょうか。
のちの時代にできた痕跡(登山道など)にもいろいろと名前を付けたがる人がいるようです。



■ もっと見たい方−馬冷やし(こまびやし)


馬冷やし(こまびやし)と呼ばれているこの場所は、見てわかるとおり尾根を深く掘って分断した堀切です。
通説では、南北に風が通り抜けることや坎井(かんせい:山頂部の泉水)にも近いため、馬の休憩所であったとされています。
でも実際は、この上の無名曲輪群が要害部における甲斐側からの攻撃に対する防御の要であることを考えると、この堀切り(馬冷やし)はその防衛線ですね。



■ もっと見たい方−八王子城最大の掘切り


詰の城から富士見台方面に向かう登山道を降り始めたところにこの城で最大の堀切りがあります。
ここは八王子城の縄張り図の中で西端に位置します。
堀切りは敵が尾根伝いに侵攻してくるのを防ぐ目的で、尾根の背を"U字"状、あるいは"V字"状に切り込んだ防御構造です。
八王子城には戦国の時からむき出しのまま残っている堀切りが、ここの他にも多数あります。
400年以上の時空を超えて残っている削り込まれた岩肌を目の前にしたとき、戦国の人たちと同じものに触れることができます。
さらに気付いて下さい。岩肌の中央にはえぐり切りこまれた方形の空間(祈壇?)があります。戦いに明けくれた当時の人たちの祈りの証でしょうか。



■ もっと見たい方−太鼓曲輪:手つかずの掘り切り群


太鼓曲輪には第一〜第五まで合計5つの掘り切りがあります。
しかもその殆どが430年の歳月を経ても土砂に埋もれることもなく当時の削りとられたままの姿を見ることができます。
太鼓曲輪の登り口はここを参照して下さい。
また八王子城にはもっと大きな掘り切りが他にも見ることができます。



■ もっと見たい方−清龍寺の滝:風魔の小太郎もここで体を洗ったかも


八王子城の搦め手(裏手)にひっそりと眠る清龍寺の滝です。
八王子城山の山頂に向かう道はいくつかありますが搦め手側には陣馬街道沿いにある松竹橋からスタートする道があります。住宅街を通り抜け城山登山道の起点の表示を過ぎ5分くらい進むと右手に清龍寺の滝への分岐の表示が出てきます。渇水期には巨大な岩盤を見るだけとなります。雨の降った翌日とかが確実です。
風魔 小太郎とは後北条一族の忍者・風魔一党のカシラの代々の名前です。天正18年(1590年)6月23日、八王子城落城の日、風魔一党はこの城の搦め手(裏手)に守備範囲をもち縦横に暗躍しました。
ご推察のとおりこの城跡ガイドのホームページのアドレス(URL)の中ほどのドメイン名「fuma-kotaro」はこれにちなんだものです。
モデルは城跡ガイドのSNGさんですが、これに意味はなく単に滝の大きさが分かるようにです。



■ 戦国時代にも: 雨水排水溝が?


確かに当時の土塁の構築法の基本に、内側の裾には排水溝を作るというのはあったようです。
ただしこれは現代になって作られたものです。戦国の当時のものは虎口階段の踊り場のものを参照して下さい。



■ 戦国時代には: 御主殿の滝もこんな水量が?


近年では御主殿の滝・城山川も水量が少なく、とくに城山川は涸れ川の状態もまれではありません。
たっぷり雨が降ったあとはこんなこともあります。戦国のときには御主殿の滝も城山川もこんなに水量があったんでしょうか。