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■ 北条氏照公と家臣の墓


八王子城勢は天正18年(1590年)6月23日、豊臣秀吉の命を受けた前田利家、上杉景勝の(北国連合軍)と戦い、八王子城はこの日落城しました。
このとき秀吉の小田原攻めのさなかで氏照は小田原におりました。八王子城落城後、北条勢は小田原城を開城し、秀吉の命により氏照は兄氏政とともに城下で切腹し、小田原にある北条家の菩提寺である伝心庵に埋葬されました。現在、伝心庵はなくなっていますが、墓は小田原駅前に残っています。

写真中央は氏照の供養塔です。右は氏照の重臣中山家範(勘解由)、左は家範の孫にあたる信治のものです。
家範は落城の日、主君のため最後まで奮戦し討死しました。
一方、家範の長男照守と次男信吉は徳川家康に召抱えられ、とくに信吉は水戸藩の家老まで昇り詰め、その四男の信治は落城百回忌追善としてこの供養塔を建立しました。



■ 松木曲輪(山頂下:八王子城跡碑、八王子神社碑)

                          八王子城跡ガイド 山本 仁 さん寄稿
[八王子城跡の石碑]


   ―撰文のある三つの石碑について
                           山本 仁 (八王子市散田町在住)

八王子城跡は天正十八年(1590)の落城後、入国した家康により政治的理由により城跡への立ち入りが禁止され、御林山として管理、それが江戸時代続いた。また、圧倒的な秀吉軍勢の猛攻をうけ、1300余人が討死した悲惨な落城であったため、地元の人びとは「忌み山」として近寄ることを避けてきた。このような経緯から、城跡には撰文された石碑などの構築物は全く造られていない。もっとも、城や戦に関する碑などを御林山に建てることは、許されなかったのかも知れない。なお、神社の再建と修験者などの小さな供養塔の建立は行われている。こうした流れは明治維新後も続き、漸く地元の有志を中心に多くの関係者により大正の時代以降三つの大きな撰文された石碑が建立された。

(碑文名)

(建立場所)

(建立年月)

「八王子城跡碑」

松木曲輪

大正八年晩秋

「八王子神社碑」

松木曲輪

大正八年九月

「八王子城戦死者招魂碑」

山王台

昭和八年十二月


これら三つの碑は、史料としての価値は別として、漢文で書かれており、また,高く聳え立って文字が見え難いため、城跡を訪れた人びとが読んでくれているか疑問である。そこで、この碑文を写し取り解読している「多麻金石文」(山本正夫著)から、全文を引用し紹介させていただきます。



[八王子城跡碑]

                          八王子城跡ガイド 山本 仁 さん寄稿
城山の頂上の松木曲輪に「八王子神社碑」と並び、東面して立つ同型同大の豊(ほう)碑(ひ)(功徳をほめたたえた大きな碑)である。

 撰文 中山信実は中山勘解由家範の末孫。
 篆額 北条氏恭は北条氏康の後裔。

ところで、松木曲輪でこの碑を読む度に気になる件(くだり)がある。
それは「近藤助実、金子家重,狩野一庵等奮戦して之に死す。横地監物、遁走して土人に殺さる」という件である。城主氏照の留守を預かる城代(最高責任者)横地監物一人が、遁走という一般にあまり善くない言葉で記されていることである。ただし、この碑に限っていうなら、意図して記されたものではなく、言い伝えなどに基づいて、あるいは何等かの意図をもって記された過去の文献から単純に引用したものと思われる。
  以下、山本正夫著「多麻金石文」復刻版から引用

   _碑文(漢文)表示(PDF)

   _和文表示(PDF)


[八王子神社碑]
                          八王子城跡ガイド 山本 仁 さん寄稿
バスで来られた方や歩きの方が城跡に近づくと右手に白い八角形の屋根をした建物が見えてきます。これが12年10月にオープンしたガイダンス施設です。
八王子権現は城山山頂(松木曲輪)にあり、大正八年九月鎮座一千年に当たり之を紀年として其の来由を誌るした碑がこれで「八王子城跡碑」と仲よく並んでいる(向かって右側の碑)。僧妙行は天慶八年(945)六月十五日入寂(にゅうじゃく)、時に年八十六。天皇は妙行の死を聞き勅して華厳菩薩の号を賜わった。(逸見敏刀 著「多摩御陵の周圍」)妙行の墓は華厳谷戸にある氏照の墓の後方の宝筐印塔(ほうきょういんとう)がそれである。
  以下、山本正夫著「多麻金石文」復刻版から引用

   _碑文(漢文)表示(PDF)

   _和文表示(PDF)



■ 山王台(殿の道:八王子城戦死者招魂碑)



                          八王子城跡ガイド 山本 仁 さん寄稿
山王台に建立されているこの碑は、山王台より上にある松木曲輪に建立されている二つの碑、「八王子神社碑」・「八王子城跡碑」のうち、特に、後者の顕彰碑的な碑と対照的といえよう。  なお、この石碑の塔の部分の正面には、「南無妙法蓮華経」と刻されており、かんじんの「八王子城戦死者招魂碑」の題字は、塔の裏面に刻されているため、一見して碑の性格はわかり難い。最後に若干の感想をのべてみたい。
  以下、山本正夫著「多麻金石文」復刻版から引用

   _碑文(漢文)表示(PDF)

   _和文表示(PDF)


いつの時代でも、戦争は勝者・敗者とも兵力の大きな犠牲を伴うものである。八王子城は圧倒的な兵力の秀吉軍の猛攻をうけ、壮絶・凄惨をきわめた戦いで、短時間のうちに千三百余の将兵などが討ち死し、落城したと伝えられている。
ところで、これら討ち死した将兵などのうち、城主氏照の一握りの重臣である武将たち中には、この碑文にあるように、敗者であるにもかかわらず、その子孫が恵まれた者、たとえ恵まれなかったとしても、その軍功を歴史に残すことができた。哀れなのは命により城を守り戦い、討ち死した多くの将兵などである。特にこれら将兵などの中には、人質の女子・農民・番匠・・・なども含まれていたのではないかと、思いをいたさずにはおられない。
こうした意味から、松木曲輪に建立されている二つの碑から十数年の後、激戦が行われたと伝えられている山王台に、この供養碑を建立した実相講の人びとの心に感動を禁じ得ないのである。



■ 中の曲輪(山頂下:横地社碑)



                          八王子城跡ガイド 山本 仁 さん寄稿
[八王子城跡の石碑]
横地社(横地神社)由来の石碑

八王子城主 北条氏照公の重臣 横地監物丞吉信を祀る神社(祠)の由来を刻した石碑である。横地監物は天正18年(1590年)の秀吉による小田原攻めの時、小田原本城に詰めた八王子城主氏照公の留守を預かる城代(城の最高責任者)であった。北まわりの前田、上杉などの大軍を迎え撃ち、壮絶、凄惨を極めた戦いののち落城した。重臣が討ち死にする中、手負いを受けたものの城を離れ、小河内村(現在の奥多摩町)で自刃したと伝えられている。(城を離れたことを含め異論があり、定説はない)この死を村人が哀れんで祠を建て祀てきたが、昭和32年(1957年)小河内ダムの完成により、湖底に水没するのに伴い、横地監物ゆかりの八王子城跡に遷座したものである。石碑は祠の遷座に際し、八王子市の教育委員会などが建てたものである。なお、碑文の『監物出て転進 再起を策して成らず・・・悲憤慷慨 遂に自決せり・・・』の表現は印象的である。
備考 横地社は1998年1月の大雪で祠を覆う建物が倒壊、2003年2月に横地一族の寄付により再建されている。